“耳には聞こえない声”が人生の新たな展開をささやきかける
両親の離婚惨劇に関わっている最中、不幸続きの母の気持ちを優先するために自分の感情は排除しなければいけないと自らに言い聞かせていたのは、幼い頃に培われた父を慕う気持ちを隠すためでした。父は厄介な性格の反面心がどこかあたたかく、おどけ上手で小さな私をたくさんかわいがってくれました。そして何より汗水流して懸命に働く父の姿が私は大好きだったのです。
ですが、悲劇のヒロインになっている母に父の味方をするような発言をちょっとでもしてしまったら最後、私の味方は誰もいない!と母は怒って収拾がつかなくなるに決まっています。来る日も来る日も母の嘆き話にただ相槌を打っているうちに、私は軽いうつ状態に陥ってしまったようでした。
「黒いモヤモヤしたカタマリが胸の中にずっとあるのよ。」
不安症と診断された母が口にしたこの言葉が感覚として分かるような気がします。喜怒哀楽が消え失せて心が動きません。
ーどうか誰にも悟られませんようにーテレビを観ている子供たちに気付かれないようにキッチンの陰にうずくまって心の暗闇にしばし沈みー何もなかったかのように立ち上がって夕げの支度をー
しばらく苦しい日々が続いたものの、友人がそっと教えてくれた自然療法やアカシックリーディングセッションでのゲリーからのアドバイスに癒され、私は少しずつ回復していきました。
その頃には母も気持ちを切り替えて自分の力で生活していけるようにと一人暮らしの居を構え、新しく資格を取って始めたデイケアの仕事で自転車を走らせながらお客さんの家々を訪ねまわる日々を送るようになりました。「子供や孫に迷惑をかけないように」との一心でとにかく必死だったとのことです。あれだけの災難に見舞われながらの不屈の精神と頑張りに頭の下がる思いがします。時が経ち、母の自立心にも助けられ、我が家に落ち着いた日々が戻ってきたのです。
やっと、晴れ間が見えてきた。
長い賃貸暮らしを卒業し、ついに家を建てることになりました。念願の終の棲家です。第一希望の地域では良い物件に出合えず最寄り駅を変えてみたところトントン拍子に話が進み、その年の12月には無事に家の引き渡しが終了しました。
荷物の搬入前の下見にと一人で新しい家を訪ねた時のことです。鍵を開けようとした瞬間、頭の中に耳には聞こえない声が響きました。
「ここは、終の棲家じゃない!」
そして引っ越しの荷物が片付き一人で家事をこなしている時にはこんな言葉が聞こえてきたのです。
「菩薩存在になりなさい。」
どちらの声もだいぶ昔に聞いた、威厳のある男性的な声です。
菩薩存在とはいったい何のことでしょう。
間もなく始まる人生の新しい展開を何一つ知らないまま、私は黙々とアイロンを掛けるのでした。
その後、菩薩存在とは何のことなのかが気になりちょっとだけ調べてみました。
菩薩とはサンスクリット語で「ボダイサッタ」といい、それが中国で「菩提薩埵」と訳され、日本で菩薩と呼ばれるようになったもの。直訳すると「悟りに向かって修行する人」となり、お釈迦様のように修行を終えて悟りに到達していないが、それに向かって精進している者という意味を持つのだそうです。
仏教にも仏像にも興味、知識はありませんでしたし、ましてや悟りへの欲求があるはずも無く「菩薩存在になりなさい。」とは私にとってまったく雲をつかむような言葉でした。そんな言葉を受け取ったと大っぴらに話すのは自慢話かのようで気恥ずかしくさえ思うのです。
ただ、
「真っ白くなりたい」「透明になりたい」という私の想い、言い換えるならば衝動と通じるものがあるような気はします。
「求道者ということかな。それなら悪くないかも。」
疑うことも深く考えることも止めて素直にその言葉を受け取ることにしました。
今でもそ言葉は、そーっと胸にしまってあります。