父の最期
除夜の鐘をまたいで2024年を迎えたばかりの深夜、何枚もの絆創膏でしっかりと顔に貼りつけられていた酸素吸入のチューブを剥がし取って、父は自らの選択であの世へと旅立っていきました。
元旦の早朝に連絡を受け訪ねて行くと、頬にはチューブを外す際にひっかいた鮮明な赤い傷がありましたが、穏やかな表情で父は安らかに横たわっていました。身体中の骨格が分かりそうなほど肉が削げ落ちていて、触れてみると腕も足も骨そのものを触っているかのよう。医師もここまで頑張らなくても良いのにと哀れむほど、父はチカラの限り生き延びたようです。
亡き父の枕元には、長女が送った手紙とひ孫の写真が置かれていました。配達状況を知るために簡易書留扱いのその封筒の父の名の下には「○○だよ!」とデカデカと長女の名前があり、便箋の字も太いペンで大きく書かれています。衰弱した父が封を開けなくても孫から手紙が届いたと分かるように、手紙が読み易いようにとの長女の精一杯の配慮に涙がこぼれます。父は手紙が届いたことを知っただけでその内容までは見られなかったそうですが、受け取って間もなく旅立っていったのですから父の心に何かが届けられたに違いありません。
親子の再会を果たさぬまま、父を見送る結果になってしまいました。
このことについては父にとっても私や妹にとっても簡単に語れるものではないですが、それぞれがそれぞれを思い遣っていたのは感じ取れたように思います。
泣くくらいならと焼かれて骨になる前に何度も足を運び、棺にはありったけの花を詰め込んで、それでも不意に涙はこぼれるのですね。年明けは葬儀場や火葬場が混み合うのが幸いして充分にお別れの時間を持つことが出来、後悔なく父を送り出せたことに感謝しています。
父の人生や人柄については賛否両論で、その賛と否の差も激しいものです。父本人は後悔だらけの人生だったでしょうが、父の子に産まれたこと、育ててくれたこと、父の人生が多くを学ばせてくれたことにありがとうと、胸を張って天国に行くんだよと、言葉にして送ります。
お父さんありがとう。父のご冥福をお祈り致します。